衝撃の内容だった。エベレストに関する本のなかで群を抜いている……
本書はアメリカの代表的アウトドア誌「アウトサイド」で執筆活動をしていたジョン・クラカワー(Jon Krakauer)によって書かれた。彼がのちに書いた「荒野へ」と映画化された「into the wild」は僕が好きな本と映画。これらも名作だけど、別の機会に。
「空へ ~エヴェレストの悲劇はなぜ起きたか~」は1996年5月のエベレスト遭難記である。エベレストは1953年にエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイによって初登頂がなされ、その後にさまざまなルートを開拓された。1985年にもっとも容易と言われる南東稜を経由するルートから、クライミングの経験がほとんどない富豪のディック・バスが卓越した若手クライマーの案内によってエベレストに登頂したのが象徴しているように、登山家と呼ばれる人でなくても登頂することが出来るようになった。(ディックバスの金にものを言わせた一年間で七大陸最高峰登頂の話は「七つの最高峰」という本にまとめられている。面白い。)
エベレスト登頂にあたり、営利目的でつくられた営業遠征隊が増えてきていたのが1996年当時である。その中でもっとも実績と信用があったロブ・ホール隊に、著者はアウトサイドから営業遠征隊のルポを書くために参加した。そして悲劇が起こったのだ。
著者はエベレストを登頂し、無事に下山した。だが、1996年の春のシーズンのエベレストでは彼の隊の隊長であるロブ・ホールを含め12名が亡くなった。そこには日本人女性で2人目のエベレスト登頂者であり、七大陸最高峰登頂者となった難波康子さんも含まれている。そのときエベレストで何が起こっていたのか、を著者が帰国後にインタビューを繰り返して纏めたのが本書。壮絶な内容に慄然とする。
国家的威信を背負ってやってきた南アフリカ隊や台湾隊、スウェーデンから自転車を漕いでやってきた単独登頂を目指す若者、七億円近い資金を注ぎ込んで映画撮影を目的にやってきた隊など、各隊、各人に想いがある。思惑が複雑に絡み合ってゆくのは標高が7000mを超える極限の区間。死が隣り合わせの場所なのだ。
痛ましい遭難にいたるまでの経過や、当事者たちの心の動きが詳細に描かれている。登山的な側面と人間的な側面からエベレスト登山の実態について書きあげた類稀なる作品となっている。
「空へ」がさまざまな人物に焦点を当てているため、今まで読んだヒマラヤに関する本の人物が一挙につながってきた。たとえば「無酸素登頂8000m14座への挑戦」の小西浩文さんがエベレストで命を助けられたというロブサン・ザンブーは、「空へ」での悲劇がおきた1996年フィッシャー隊のシェルパをやっている。小西さんが難波さんと会ったエピソードが無酸素登頂8000m14座への挑戦に出てくる。また、小西さんは「8000メートルの勇者たち―ヒマラヤニスト・山田昇とその仲間の足跡」の山田昇さんにヒマラヤに登れるか確かめられたようだ。
「落ちこぼれてエベレスト」の野口健さんと小西さんはそのロブサンを取り合った仲らしく、小西さんは野口さんは師匠と弟子のような関係だという。その野口さんをエベレストに案内したのが「エベレスト登頂請負い業」の村口徳行さんで、村口さんは「デブでズボラがエベレストに登れた理由」の三浦雄一郎さんや「63歳のエヴェレスト」の渡邉玉枝さんと一緒にエベレストに登っている。ちなみに三浦さんは今年80歳でのエベレスト登頂を目指しており、渡邉さんは73歳でエベレストを登頂している。
講演会に行ったこともある世界的なクライマーである山野井泰史さんが小西さんとブロード・ピークに登頂している。山野井さんとクライマーである奥さん長尾妙子さん(旧姓)が挑んだギャチュンカン北壁登攀のノンフィクションの「凍」を書いているのは深夜特急で有名な沢木耕太郎。
エベレスト登山史に詳しくなるにつれて、点であった話が線になってゆくのが愉快。エベレスト初登頂の謎を交えつつ、ヒマラヤを舞台とした夢枕獏の「神々の山嶺」も文句なく面白いので紹介しておきたい。
「空へ」から話が脱線したけれど、この本は超一級の内容。間違いない作品である。
僕がエベレストベースキャンプまで行ったときの記事
・[ネパール]エベレスト1:想い
・[ネパール]エベレスト2:日本人女性最年少登頂者に出会う
・[ネパール]エベレスト3:べジータ vs カカロット
・[ネパール]エベレスト4:今年4度目の新年を迎える
・[ネパール]エベレスト5:BCでの再会とカラパタールからの絶景
・[ネパール]エベレスト6:チョラパス(Cho la pass)越えは中級者向けの美しき道
・[ネパール]エベレスト7:もう一方の見どころ、ゴーキョピーク
・[ネパール]エベレスト8:俺達はまだ本気を出していないだけ
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