怒りは原動力だけど、希望という原動力もある

どーも。怒らない会代表のタカ(@viatortaka)です。

先日書いた「僕から怒りという感情が失われた理由」は反響がそれなりにあった。現実世界でも言及されたりして恥ずかしかった。

もらったコメントやメッセージの中には「怒りが失われたわけではなくて、コントロールできるようになったということ」という指摘があり、確かにそうなのかもしれない。ただ、それでも怒るポイントが減っているような気もするんだよね。

そして気になったコメントをナミブ砂漠に一緒に行ったりょーたからもらった。

「期待や怒りが、進歩とか改善とかの原動力になったりするので、時には必要だと思う派だなー。」

さらに目に止まった記事が以下。

「怒り」という力が失われた時 – あままこのブログ

で、早速本題なんですが、最近の自分は、どーも「怒り」が足りないのではないかと、そう思えてならないのです。

これ、まあ普通の人にとってはいいことなんでしょうが、僕みたいに「怒る」ことが、ブログを含めた全生活を、なんとか支えていたものだったわけで、これが足りなくなると、すごい困るんです。

色々試してみました。なんとか他の、喜びみたいな感情を動機に生活できないかとか……でも、喜びって結局刹那的で、かつ孤独なものじゃないですか。何か食べて美味しかったー、アニメやゲームが面白かったーなどのように、その一時に対しては、喜びが行動の原動力になるわけですが、じゃあその為に自分の生活をきちんとしようとは思えないというか……「今が楽しければそれでいい」でズブズブと堕ちていってしまう。

怒りは違うんですよ、怒りっていうのは、尾を引くものであり、何か対象を持つものなわけで、怒りの対象をなんとか貶めてやろうという計画を練り、その為に日々の日常生活を送ろうとする。少なくとも以前の僕にとっては、そーいう怒りの感情が、ブログ執筆も含めた、日々の生活を支える原動力だったわけです。
そしてその原動力がなくなった今の僕は……結構生きること自体がきつくなっちゃうわけです。

怒りが原動力となるというのは前々から思っていたこと。

例えば食料が余っている世界において飢餓で死ぬ人がいるなんてあり得ない!という怒りを原動力に世界を改善しようと活動する人が現れる。現在の社会の不備を見つけ、それを天命だと事を成す。上記リンク先の方はプライベートにおいて怒りを原動力に日々の生活を送っていた様子。

世の中こんなもんだよねと諦めにも似たような受け入れ方をすると、大きな原動力を失う。大きな事を成す人というのは、ちょっとやそっとのことでは満足しない原動力をもっている。それは怒りや憤りではないか。

よって怒りが失われていくことは良いのか悪いのかと思ったのである。

そこで救われた一言があった。

「僕も帰国してから、ありのままを受け入れ過ぎてる自分に気付いたよ。。たかさんの場合、怒りじゃなくて希望で動く人だから、OKな気がするけどね!」

希望で動く人とは嬉しい言葉。怒りではない原動力が希望にある。

怒りはあまりないけれど、やばいくらいに楽しいことができる村を作りたいという希望、荷物をカヌーに積んで旅するツーリングをもっと広めたいという希望、捨てられている鹿や猪の肉を減らしたいという希望、ボードゲームを広めたり作ったりしたいという希望など、たくさんの希望を見据えている。

希望をうしなわないように生きていけたらいいな。

ちゃお!







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管理人のたかです。1984年4月20日生まれ。不動産会社での開発業、自転車世界一周、地域おこし協力隊を経て、愛知県新城市の古民家で宿泊事業をはじめました。SNSでフォローしていただくと最新記事を読むことができます。よろしくお願いします。