僕から怒りという感情が失われた理由

どーも。怒らない会代表のタカ(@viatortaka)です。

怒る姿が想像できないと言われて考える。いつから怒りをあまり持たなくなったのか。

もともと怒ることに否定的だった。塾講師や家庭教師をしているときに教育論に関する本をよく読んでいたが、怒るよりも褒める方が効果が高いと知った。怒ることは怒られる人のためと言うこともあるが、多くは自分のストレス発散のためだと思うようになった。怒ることは手段の1つだが、最善ではないと信じている。

怒ることは負のエネルギーで、それを出した本人も周りにいる人にも負のエネルギーが流れる。怒りの連鎖に巻き込まれていいことはない。怒りっぽい人と一緒にいるよりは穏やかな人と一緒にいたい。

そんなことを思っていたのは事実。しかし、だからといって怒らなくなるわけではない。

怒りは期待と理不尽によって起きる

人はなぜ怒るのか?

それは期待するからである。

この人はこんなことしないだろう、と思っている相手にその期待を裏切られたとき怒りが生じる。もしくは人としてどうなの?と自分の中の杓子定規から逸脱する行為を目にしたとき、怒りが生じる。

しかし僕はここ十数年で多くの期待を裏切られてきた。

例えば人がうちに来たときの話。

食卓に脱いだ靴下を置かれた。はじめはまじか!と驚いたものである。今ではそういう人もいるよね、という感じ。

大切にしていた日本一周した自転車を室内に置いていた。朝起きたら酔っ払い(友人)に小便をかけられていた。信じられない気持ちだったが、今ではそういう人もいるよね、と(以下略)。

こんな話はいくらでも出てくるが、自転車で世界一周に出てさらに多くの期待を裏切られてきた。

中国で和式トイレでうんこが山盛りになっていた。それはひどい光景であったが仕方なしに自分もする。ふとレバーを押してみると水ですべてが流れていった。えええええ!?なんで今まで誰も流さなかったの?流す習慣ないの?自分で出したものは自分で流すということは別に当たり前ではなく、教育によるものだと知った。

具体的な話を書き始めたらきりがないけれど、ホテルの美しい絨毯に痰を吐く人や、賄賂を請求してくる役人とか、死の危険がある病気に対してノープロブレムというツアーガイドとか、人への期待は著しく下がった。多くを人に期待していないし、日本にいるとむしろ感謝感謝の毎日である。

世の中には本当にさまざまな人がいることを体感したので、自分の感覚の外の行動をされても怒りという感情がわくことはほぼない。そういう人もいるという発見があるだけ。

僕が怒りを覚えるとすれば、その相手への期待がよほど高かったときと、僕にとってとんでもないことをしたときである。よって僕が怒っていたら自分への期待はかなり高かったと思っておいてください。

人はなぜ怒るのか?

もうひとつの解は理不尽によってである。

理不尽の場合は対象が社会となる。こんな状況になるのはおかしい!なぜ自分だけ!という怒りがこみ上げる。

それも日本にいると、他の国を旅していたときより理不尽が少なすぎて、まあこんなくらいは仕方ないよねと思ってしまう。

完璧なシステムを人が作れるわけないという諦め。

怒りが少ない人はもしかしたらいろいろなことを諦めているのかもしれない。諦めというと言葉が悪いが、達観というと響きが素敵になる。よく言えば達観したのだ(きっと)

怒りたくない人へ

怒らないようになりたいと思う人はもっと自分を振り返ると良い。こんなことするなんて信じられない、という行為を人がしたとき、こんなこともできないのかと思う。

しかし自分はすべてできるのか?人にはそれぞれ当たり前があり、自分は世の中の人すべての当たり前をこなせるのか?

日本は同一性が高いので人はそれぞれ違うことに気がつきにくいが、世界を見れば人の考え方や習慣は驚くほど違う。怒る人は多様性を感じる機会を増やすべきだ。

簡単な方法は海外旅行に行くこと。世界を見よ!!!

地球から怒りなんてなくなればいいのに。

ちゃお!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です