[本]狩猟サバイバル-服部文祥 殺生行為と命と善と食べること

生きるってなんだろう。僕自身は、自転車や登山やカヌーなどの人力で移動するスタイルでアウトドアをすることで、なんとなく生を実感してきた。むしろ、少しでも生を実感したからこそアウトドアにのめりこんだ。

自転車で世界を巡り、次に山登りで世界を巡りたくなった。体験したい世界はよりシビアな場所であり、死があり得るからこそ生を実感するという不毛な欲望。しかしそれを避けて幸せになるすべを、代わりとなる夢を見つけていない。ならば向かうしかないだろう。

ただ、違う方向性として、農耕、畜産、狩猟などを通じて世界とつながりたいという想いがある。それが山登りにとって代わるという話ではなく、同時に進行させうるもの。今はそういう認識。そんな中で手にとった本がある。

狩猟サバイバルという本。服部文祥の著書はサバイバル!―人はズルなしで生きられるのかに次いで2冊目である。

著者のプロフィールを追うと、大学から登山をはじめ、その後ストイックな海外登山を経て、サバイバル登山に落ち着いたようす。サバイバル登山とは、長期山行に装備と食料を極力もちこまずに、食料を現地調達するというもの。今は食料調達に狩猟を取り入れたところだ。

読んでいると、似たようなことをやってみたくなる。本で疑似体験しても何も分からない。命を奪うとは、身をもって試さねばならないのだ。魚を獲って捌く。鳥を絞めて捌く。今の僕はここまでだけど、豚や牛もやってみたい。ゆくゆくは自分で育てたり狩ったりしてみたい。

スーパーでパックされた肉が並ぶ。合理的だ。しかし、多くの命を奪って生きていることに目を向けなくてすむことに、違和感がある。一度は自分で体験したいのだ。それが食べること、つまり生きることなんじゃないだろうか、って思う。

<本文の紹介>

雪面には私を鹿のやりとりがありありと残っていた。私は許されない。こんなことをして許されるわけがない。頭で考える理屈はともかく、殺生行為そのものに「善」を見つけ出すのは難しい。(p167)

私を支えているのは二頭の鹿である。個人的な感傷だがやっぱり、二つの大型哺乳類の命を奪った責任を私は登山というかたちに変えて表現しておきたかった。(p183)

なんでもかんでも自分で判断し、気ままに振る舞う。ケモノを自分で殺し、薪を切ってきて火をつける。男のロマンなんて言葉が似合いそうな状況だが、実際に何ができるというわけではない。乞食のような生活だ。だが、私を規制するのは人間のお約束ごとではない。自然環境である。それが何とも気分がいい。(p185)

他の動物が、獲物を丸呑みしたり、がつがつ食べてしまったりするなかで、獲物をきれいに解体するというのは、人間が他の生き物に誇っていい行為だと思う。(p192)

できるという確約はないが、できないと決まったわけではない。可能性があるかないかわからない目標に向かって、小さな努力を積み重ねていく。そんな手応えのない感覚がきらいではない。(p205)

喜びと同時に大きな哺乳類を仕留めた責任感のようなものが沸いてきて、息苦しくなる。(p213)

だが世界をきちんと扱わなければ、世界から自分がきちんと扱われることもない。(p250)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です